―― 肺がんステージ4と終末期の記録 ――
私は四歳のとき、生母を乳がんで亡くしている。
死というものは、私にとって抽象的な概念ではなかった。幼いながらに、「人は突然いなくなる」という事実を体験していた。
父は離婚したり死別したり再婚をしたりで、中々大変な生き様で、多くを語る人ではなかったが、不器用なりに家庭を維持しようとしていたことは、今になって分かる。
そして大人になった私が、今度は父を肺がんで見送ることになった。
2025年8月 ― ステージ4の確定
2025年8月。
父に肺がんステージ4が確定した。
非小細胞肺がん、扁平上皮がん。
肺の上部と下部に転移が見られ、遠隔転移を伴う進行がんであった。
他臓器転移は確認されていなかったが、医学的には根治不能であることは明らかだった。
九州医療センターの主治医は、早期入院と抗がん剤治療を提案した。
しかし父は言った。
「自動車免許の更新がある。」
入院開始は遅れて9月16日になった。
あの時の父の言葉を、私は「どうして、医療従事者の言う事を聞かない」と辛い気持ちで聞いた。
だが今思えば、「まだ自分は動ける」「まだ人生は続く」という意思表示だったのだと思う。

治療計画と現実
遺伝子検査(PD-L1検査)の結果、標的治療に該当する遺伝子変異はすべて陰性。
PD-L1は50%未満だった。
予定された治療は、
- CBDCA
- nab-PTX
- Pembrolizumab(免疫チェックポイント阻害薬)
本庶佑先生の研究で広く知られるようになった免疫チェックポイント阻害薬が、標準治療として使用できることに、医療の進歩を感じた。
当初のパフォーマンスステータスは1〜2。
まだ緩和ケアの段階ではなかった。
だが入院直前、父は肺炎を発症した。
さらに入院中、新型コロナウイルスに感染。
抗がん剤治療は実施できなかった。
病状は確実に加速度的速さで進行していた。
11月 ― 余命宣告
11月中旬、主治医から余命宣告を受けた。
腫瘍の拡大は早く、腫瘍マーカーも悪化。
「半年は持たない可能性が高い」と説明された。
父は尋ねた。
「今から抗がん剤はできないか。」
主治医は、現在の体力では化学療法はかえって意識不明や寝たきりを早める可能性が高いと説明した。
父は「そうか」と言った。
その言葉は短かったが、受け入れた重みがあった。
私は、医学的合理性と本人の意思との間で揺れ続けた。
延命が正しいのか、生活の質を優先するのが正しいのか。
正解はなかったが、父の決断は尊重されるべきだ。緩和ケアに移行することが決まった。
自宅療養、そして緩和ケアへ
12月、自宅で正月を迎えることを目標に療養を続けた。
しかし中旬には歩行が困難になり、緩和ケア病院へ入院となった。
1月前半、友人や親しくしていた人、牧師が見舞いに来てくれた。
一日中ベッドで過ごしていたが、意識ははっきりしており、長時間話すこともできた。
ただ、日に日に睡眠時間が増えていった。
終末期に近づくと、身体はエネルギー消費を抑える。
代謝は低下し、脳の覚醒機能も弱まる。
それは医学的に自然な経過だった。
食事が取れなくなった日
1月中旬、父は食事が取れなくなった。
点滴による栄養補給のみとなった。
意思疎通できる時間は急速に減った。
耳は聞こえているようだったが、発語はほとんどなかった。
私は、これが父と会話できる最後の時間だと悟った。
終末期では、高次の認知機能は低下する。
痛みや不安を「理解して感じる」脳の機能は、静かに閉じていく。
見た目ほど、本人は苦痛を自覚していない可能性が高いという話を緩和ケアのスタッフから聞いて自分を納得させた。
1月20日 ― 最期の夜
血圧と脈が弱くなっていると、病院から連絡が入った。
職場から駆けつけた。
父は酸素吸入をしながら、かろうじて呼吸していた。
やがて呼吸は不規則になった。
「はっ……ふ……」
死戦期呼吸だった。
胸はほとんど動かず、顎だけが上下する。
これは意識的な呼吸ではなく、脳幹の反射による最後の動きだ。
意識はほぼない。
苦痛を認識している可能性も極めて低い。
やがて呼吸が止まり、脈は触れなかった。
瞳孔反応も消失。
当直医が到着し、死亡診断。
日付は1月21日、午前0時25分。
父は永眠した。
緩和ケアの意味
私は緩和ケア病院の主治医と看護師にお願いしていた。
「痛みと苦しみをできる限り少なくしてください。」
がんは呼吸機能を侵し、代謝を乱す。
本来なら苦しいはずだ。
それでも鎮痛と緩和により、神経に走る痛みは抑えられた。
穏やかな最期だった。
それが何よりの救いだった。
医療への感謝
九州医療センターの主治医には、深い感謝しかない。
標準治療を提示し、父の意思を尊重し、最善を尽くしてくださった。
緩和ケア病棟(牟田病院)のスタッフの皆様も、父ができる限り尊厳を保てるよう支えてくださった。
「12月を越えるのは難しいかもしれない」と言われながら、父は1月21日まで生きた。
その時間の中で、友人と再会し、言葉を交わした。
それは、何ものにも代えがたい時間だった。
父を見送るということ
親を見送ることは、突然とやってくる現実である。
死は年齢を選ばない。
看取りとは、特別なことをすることではない。
その時間から逃げずに、そばにいることだ。
私は無力だった。
父の手を握るくらいしかできなかった。
でも、それで十分だったと思っている。
それ以上のことは人は出来ないのだ。
人の無力さ儚さを知りつつ、それでも愚直に生きることだけが残された人にできることなのだ。
遺影を見つめる猫
田舎で野良猫と飼い猫が混雑した地域で父は育ったため、
動物病院につれて行ったりしない父で、こいつ猫を飼う資格ねえと思っていたが、
父が趣味の釣りに出かけて漁村の野良猫がいつの間にか車に乗ってきて、なぜか懐いて、漁村に帰らなくなった猫。
※保護時に動物病院に連れて行き各種ワクチン摂取、去勢済み

なんだかんだ言うわりに可愛がっており、猫は写真と遺骨になって帰ってきた父を見続けていた。
猫も仲間の死を悼む事ができるのだと思い、泣いた。