第2章 バプテスト教会の誕生と17世紀のバプテスト教会の発達
第1節 イングランド国教会とピューリタン分離派
第2項 イングランドにおけるピューリタンと分離派
(1)ピューリタン運動
(2)ピューリタン分離派
ウィリアム・ロード(William Laud, 1573-1645 在職1633-1641)大主教はピューリタンを迫害した。
パティキュラー・バプテスト教会の土台となった教会の初代牧師ヘンリー・ジェイコブは1624年、信仰の自由を求め、アメリカ、ヴァージニアへ渡航しした。また、二代目の牧師、ジョン・ラスロップは1634年以降に信徒30人と共にニューイングランドに出航した。
ピューリタン分離派派は会衆主義的教会政治に固執し、主教政治による国教会を偽りの教会であるとし、国教会に留まり教会改革を目指すピューリタンであろうとも、国教会から完全に分離しない限り、偽りの教会に属する者として、聖餐にあすかる事を許さなかった。分離派はキリスト以外、各個教会を支配するあらゆる地上の権利を認めようとしなかった。
分離派の思想は、ロバート・ブラウン(Robert Brown, 1550?-1633)に始まり、ヘンリー・バロー(Henry Barrow)、ジョン・グリーンウッド(John Greenwood)に受け継がれた。また、フランス・ジョンソン(Francis Johnson)、ヘンリー・エインズワース(Henry Ainsworth)、ジョン・スマイス(John Smyth)たちの著作の中に現れた。
第2節 最初のバプテスト教会 2つの潮流
バプテスト教会にはジェネラル派とパティキュラー派の2つの潮流がある。
アルミニウス(Jacob Arminius, 1560-1609)の唱える、キリストの贖罪は信じるすべての人に与えられるという普遍的贖罪説にたつのは、ジェネラル派。
- アルミニウス(Jacob Arminius, 1560-1609)の唱える、キリストの贖罪は信じるすべての人に与えられるという普遍的贖罪説にたつのは、ジェネラル派。
- カルヴァンの唱える、キリストの贖罪は神に選ばれたた人に与えられるという限定贖罪説にたつのが、パティキュラー派である。
第1項 ジェネラル・バプテスト派の起源
(1)ジョン・スマイス(John Smyth, 1570-1612)
ピューリタンの思想の影響をうけ、国教会を批難したため、教授職を辞職においこまれる。1606年頃から分離派教会の牧師となる。ピューリタン分離派は、国教会内部における改革運動では生ぬるいとし、国教会外で非合法礼拝を守った。1608年、信仰の自由を求めオランダ、アムステルダムに移住する。スマイスは、メノナイト・ウォーターランド派との交流から、信じる者のみが構成する教会という分離派の教会観と自覚的信仰を持たない新生児バプテスマが許されていることに対する矛盾に気づいた。スマイスは聖書と初代教父文書から、新生児洗礼は聖書の教えに反すると結論し、分離派教会を解散した。さらに、スマイスは、原始教会に存在した正しいバプテスマは歴史的に継承されていないと判断した。そして、1609年、スマイス自身は水を振りかける形式のバプテスマを執行し、残りも同行者も同様のバプテスマを受けた。しかし、1610年、スマイスは自己洗礼を行ったことは間違いであると主張し始め、メノナイト教会との合併を申し出た。
(2)トマス・ヘルウィス(Thomas Helwys, ?-1616?)
ヘルウィスらのグループはスマイスの自己洗礼はバプテスマのヨハネにならった妥当な行為であったと主張し、迫害覚悟でイングランドに帰国した。1612年、ヘルウィスたちはイングランドで初めてのバプテスト教会を設立した。1616年頃獄中死する。
(3)ジョン・マートン(John Muton, 1583-1625?)
ヘルウィス逮捕後の後者となったが、1613年に逮捕投獄された。獄中において、いかなる人も信仰ゆえに迫害されてはならない事、良心に基づく礼拝の自由は守られるべきである事、良心の自由を抑圧することは神の意思に反する事などを主張した。信仰の自由の他に、普遍的贖罪説を弁護した。
(4)スマイスとヘルウィスに見られるアルミニウス主義神学思想
(5)初期ジェネラル・バプテスト派の帰属教会の探求
マートンも獄中死し、指導者を失った信徒群であったが、1625-1630年にかけてロンドン周辺に5個の教会が点在するまでに成長した。ヘルウィスとマートンの投獄によって中心を失った五教会群はアムステルダムのメノナイト教会との合併を模索した。その模索過程においてメノナイト・ウォーターランド派教会との合併を放棄し、バプテストとしての独自性に目覚めることになった。
第2項 パティキュラー・バプテスト派の起源
(1)ヘンリー・ジェイコブ(Henry Jacob, 1563-1624)
ジェイコブは国教会に留まりながら聖書にかなうかを追求し、会衆主義教会という結論を得る。国教会に目をつけられたため、オランダへ渡る。1616年、イングランドに帰国し非合法秘密集荷を初め、会衆主義教会を組織した。また、ジェイコブの信徒は国教会に属するピューリタン信徒と交わることを容認するなが寛容な立場をとった。ジェイコブは国内の迫害を逃れ、アメリカ、ヴァージニアに渡り、1624年、ジェームズタウンで死去した。
(2)ジョン・ラスロップとヘンリー・ジェシー
1624年にジェイコブがロンドンに組織した教会に、ジョン・ラスロップが二代目牧師として迎えられた。1632年に捕らえられ獄中生活が続く。1634年に獄中にあっては牧師の仕事ができないと牧師を辞任した。その後、釈放後は信仰の自由を求めニューイングランドに移った。
1637年、三代目牧師ヘンリー・ジェシー(Henry Jessey, 1601-1663)が招聘される。ジェシーは寛容路線を踏襲した。1640年、ジェシーが牧会していた教会は2つのグループに分かれた。ジェシー牧会教会から分離した群れはベアボーン(Praise-God Barebone, 1596-1679)が指導者となった。
第3項 パティキュラー・バプテスト教会の誕生への筋道
(1)パティキュラー・バプテスト派誕生の筋道を語る文献について
(2)両文献が語るパティキュラー・バプテスト派の誕生の筋道
1638年、ジェイコブ、ラスロップ、ジェシーが牧会した教会(JLJ教会)において、寛容路線を非難したグループは、分離派の許容する新生児洗礼を批判することにより分離派と決別した。その中でも、パティキュラー・バプテストが重視したのは、浸礼にバプテスマの実践であった。
(3)浸礼の実践のとパティキュラー・バプテスト教会の誕生
1640年、ジェイコブ、ラスロップ、ジェイコブ教会(JLJ教会)から離脱して一人、リチャード・ブラント(Richard Blunt)は友人らとの話し合いの中で、バプテスマの様式は全身を水中に沈める浸礼が最善であるという結論に至った。コロサイの信徒への手紙2章12節とローマへの信徒への手紙6章4節を根拠とした。また、浸礼を実践していた、オランダのリンズバーグ派のもとに赴きジョン・バッテンから指導を受けた。1642年、ブラントはJLJ教会から離脱したグループの指導者となってたブラックロック(S. Blacklock)に浸礼を授け、ブラックロックが今度はブラントに浸礼を授け、パティキュラー・バプテスト教会が生まれた。
(4)「ロンドン信仰告白」の公表
迫害が続く中7つの教会をもつようになり、1644年、7つの教会が共通の信仰告白を発表した。1596年国教会分離派の信仰告白「真実の告白」(A True Confession)からの影響が大きかった。神論(神の三位一体性、キリストが預言者・祭司・王として三重の聖務をもって受肉した神の御子であること)、ドルト信仰告白の信仰箇条(人間の全面的堕落、神による無条件の選び、キリストの限定贖罪、不可抗の恩恵、聖徒の堅忍)はカルヴァン主義神学に立脚している。
特に、分離派からの影響が大きかったのは教会論である。教会は見える教会(visible church)、見える信仰者の群(believers’ church)であり、教会は頭であるキリストの体であり、主の命令と礼典に喜んで従う共同体であるとした。
分離派は他の教会や世俗的宗教的権威(国王、教皇、大司教など)から支配・干渉されることがない各個教会の自治と独立を主張した。各個教会の自治権のためには、信徒が構成する信徒総会が最高の決議機関である事を明確にする必要があった。バプテスト派は教会における権限の行使は牧師あるいは役員ではなく、全会衆つまり信徒総会に与えられているとする、会衆主義教会の根本原則を分離派から受け入れた。
パティキュラー・バプテストの独自性として、
- 教会外からの支配・干渉を排し、自治・独立権を確保した各個教会が、礼拝と礼典執行を含め教会運営においても、会衆主義を徹底しようとした。
- 各個教会が自発的意思つまり献金によって牧師を支える。これは牧師が国家公務員的性質になり、行政府からの支配・干渉に対しする否を意味した。
- 旧約の民が行った神との契約の印である割礼の代わりとして、新約の民は新生児洗礼を行うという主張を拒否した。割礼の代わりとしての新生児洗礼は認めないとした。また、「バプテスマの様式は全身を水の中に沈められる浸礼である」とした。
- パティキュラー・バプテスト派に対する誤解と批判への反論としての「ロンドン信仰告白」は、諸教会との連帯の基盤としての信仰表明となり、地方連合の基盤となった。
などがあげられる。