青年期は、児童期でもない成人期でもない、大人と子どもの過渡期である。この子どもから大人への過渡期の変化を、身体的、社会的、心理的変化として考える。
身体的変化
青年期には、性的成熟を中心とした生理的、身体的変化がおきる。体位の面でも爆発的成長がおこり、身長が急激に伸び、ついで胸囲が広がり体重も急増する。第二次性徴と身体的変化の現れる青年期の初めの発達期をとくに思春期とよび、11~12歳から15~16歳までをさす。一般に女児のほうが早く、また個人差も大きい。中学校低学年では、成長が目覚ましくすでに青年らしい特徴を備える者がある、一方で、児童期を抜け切れない者もいる。こうした一時的優劣は将来の体型がそのまま反映するものではなく、成長期の終わりには両者ともおおよそ等しくなる。
成長に関しては、20世紀後半以降、先進国の都市部では、世代を追うごとに性的成熟に達する年齢がしだいに早期化する「発達加速現象」が目だっている。このことから、青年期の成長過程が、かならずしも年齢や生理学的要因のみによって規定されているわけではないことがわかる。
社会的変化
青年期における社会的地位や役割は何であろうか。青年期は、中学校、高校、大学期に相当している。青年期という言葉は古く、J.J.ルソー(1712-1778)が『エミール』(1762)[1]において注目している。しかし、とくに関心を集めるようになったのは、20世紀に入ってアメリカ、ドイツなどで研究が行われるようになってからである。これは、先進国において学生とよばれる新しい年齢集団が大量に生み出されるようになったことに由来する。身体的に成熟すればただちに職業や仕事につく社会では、青年期に配慮する必要はない。日本においても「青年」という言葉が一般的に使われるようになったのは近代的な学校教育制度が作られた明治期以降である。したがって、学生という社会的立場が青年期を形作る一角をなしている。
心理的特徴
青年期には、身体的変化を引き起こし、児童期までの人格に大きな動揺を与える。この時期は、疾風怒濤(Sturm und Drang)、第二反抗期などといわれ、この時期の心理的な状況を形容するものとなっている。青年は、理由のない不安、いらだち、葛藤、怒りなどを感じ、理由なき反抗に走る。1970年代以降は、中学・高校における校内暴力という集団的な形、家庭内暴力という過激な形で表れ、多くの青年問題を引き起こした。さらに、青年期は心理的に不安定な時期であるため、この期に統合失調症やうつ病などの精神的不調が分かることもある。また、発達障害や児童虐待の後遺症などもこの期に顕在化する例もみられる。ときに不可解な犯罪行為に結び付くなど青年期の心理状態は危ういものである。
社会的には青年はいわゆる境界人であって、成人にも子供にも属さない境界領域の曖昧な存在である。場合により、大人としても子どもとしても扱われる。学校、家庭における青年の立場もどっちつかずで、青年の不安定や反抗に拍車をかけることになる。エリクソン(1902-1994)[2]は、そこで、青年期に克服されるべき課題として「自我同一性(identity)の確立」をあげた。青年はそれまで一方的、無自覚的に押し付けられた特徴を破壊し、個性、統一性、連続性、目的意識をもった人格を自覚的に再構成する必要がある。しかしこの課題は、生きる時代や環境によって容易に達成されないことがある。そうすると、エリクソンのいう「自我同一性の拡散」[3]が生じる。神経的不調、前衛運動、政治的反抗などの無秩序は、その一つの表れであるとされる。拡散のため自我同一性の確立が遅れる、この期をモラトリアム(moratorium)とよぶ。自我同一性の確立は人格的な意味での真の青年期の終わりを意味し、モラトリアムを経たのち自我同一性の確立までを「引き延ばされた青年期」とよぶ。
生涯続く青年期
社会は激変し、青年期までに習得した知識や技能によって一生安定した職業生活を送ることは、かならずしも期待できなくなった。そして、ユネスコにより生涯教育が提唱され、やがて生涯学習と生涯発達が求められるようになった。社会的自立への準備期と位置づけられていた青年期の意義、その境界は無意味なものとなりつつある。エリクソンの時代には、青年期は、自我同一性を確立するため役割があった。しかし現代は、生涯にわたるアイデンティティの再構成を求められている時代となった。
さらに、現代の日本では、先行き不安や経済的衰退が晩婚化に拍車をかけ、また経済的条件により、就職しながら親の家に同居するパラサイトシングル現象、引きこもり現象なども目だっている。これらは、自立の準備期としての青年期の延長であり、形を変えたモラトリアムとも考えられる。一方、情報化時代において、若年で起業家として成功する例も珍しくない。
流転する社会においては、成功者のみが青年期を終え安定を迎えるというわけでもなく、生涯身体的衰えに関係なく疾風怒濤の青年期を余儀なくされるのも考えものである。好意的に捉えれば、生涯「活動的生」[4]が「人間の条件」となりつつあるとも言える。変化に耐えうる新しい青年期の定義と青年期を支える教育社会制度が求められる。
参考文献
イミダス編集部 (2017)『情報・知識 imidas 2018』集英社
岩波書店辞典編集部 編 (2013)『世界人名大辞典』岩波書店
佐々木 正治(2019)『新中等教育原理』福村出版
西村純一 編、井森澄江 編 (2010)『教育心理学エッセンシャルズ』ナカニシヤ出版
ハンナ・アーレント、森 一郎 訳(2015)『活動的生』みすず書房
[1] 岩波書店辞典編集部 編 (2013)『世界人名大辞典』岩波書店
[2] 岩波書店辞典編集部 編 (2013)『世界人名大辞典』岩波書店
[3] イミダス編集部 (2017)『情報・知識 imidas 2018』集英社
[4] ハンナ・アーレント、森 一郎 訳(2015)『活動的生』みすず書房