選挙とは、一般的には、一定の組織または集団にあって、投票など定められた手続に従い、代表もしくは特定のポストにつく人を選出することをいう。それは一国の元首から小学校のクラス委員の選出にまで及ぶ。それらのうち政治的に重要なのは行政府の首長や立法府の議員の選出である。
選挙は、政治の場に限定しても、さまざまな機能をもつ。すなわち、国民の側からいうと、選挙は代表選出ならびに政治的指導者創出の過程であるとともに、それぞれの候補者や政党が掲げる政策の選択過程でもある。そしてそれはまた同時に、それまで政党や政治家がなしてきたことへの審判の機会であり、さらに政治と民意のずれを正す機会でもある。他方、候補者の側からみれば、選挙は当選を目ざしての集票過程であり、それは同時に権力掌握への過程でもある。政党の側からみても、ほぼ同様なことが当てはまり、首長確保や、より多くの議席を獲得するための集票過程であり、権力掌握過程である。そして候補者と政党双方にとって、選挙はそれぞれが訴える政策の正当化、権力掌握の正当化の過程でもある。さらに議会選挙に限定して別の角度からとらえるなら、選挙は社会における諸利害の対立を議会内の党派の対立に置き換える過程ともいいうる。
こうした諸側面に照明をあてるためには、代表観念の検討、選挙運動の解明、投票行動の分析、選挙制度の検討が不可欠である。
[富田信男]
▲代表
議会選挙との関連で問われ続けてきたのは、「代表とは何か」ということである。初め、スイスやアメリカのニュー・イングランドなどでは、あるべき民主制は直接民主制以外にないという観念が存在したが、そうしたところでも、人口の増加、居住地域の拡大、公務の増大などに伴い、全員が集まり、全員で討議し、全員で決定するということは物理的に不可能となった。アメリカの政治評論家トーマス・ペインによれば、そうした全員が集まるという「不便」を避けるために議会は設けられたというわけである。したがって直接民主制こそ理想であり、その不便を避けるために代議制をとっているにすぎず、議員は、彼を選出した者のかわりに出席する(represent)、あくまで「代理人」(派遣者=delegate)たるべきであった。それゆえ議員は、独自の考えで行動すべきではなく、選挙民の訓令(instruction)どおりに行動すべきものであった。
しかし歴史は下り、資本主義の進展は地域的封鎖性を打破し、利益の分化をもたらした。そうしたさまざまな利害が輻輳 (ふくそう) する社会のすべてを、特定の人物が「代理」することは不可能となった。かくして、このような代理人的観念を否定し、議員を国民全体の「代表」としてとらえる観念が台頭し、それを最初に体系的に主張したのはイギリスの政治家エドマンド・バークであった。議会は、異なった敵対する利害から送られた使節の会議ではなく、「国民の審議会」だと彼は論じた。こうした近代的代表観念に最初の明確な表現を与えたのは、フランスの1791年9月3日の憲法である。
だが、国民が選出する代表は、国民全体の「代表」なのか、それとも地元や特定集団の「代理人的代表」なのか、投票行動を研究する限り、今日でもにわかには断定しがたい。
[富田信男]
▲投票行動
国民はいったい何を基準にして政党や候補者を選定し、それに1票を投ずるのか。この点について初めて科学的な照明を与えたのは、アメリカの政治学者メリアムとゴスネルHarold F. Gosnell(1896―1997)である。彼らは1923年のシカゴ市長選挙における棄権者5310人の調査を手がけ、病気・留守などの身体上の問題、法的ないし行政的障害、投票への不信、無知・無関心・嫌気などによる不活動、の四つの範疇 (はんちゅう) を設けて考察し、新しい研究方法を開拓した。しかし、今日の科学的調査の基礎を築いたのはアメリカの社会学者ラザースフェルドらによるエリー調査(Erie County Study)といってよい。彼らは1940年のアメリカ大統領選挙において画期的なパネル調査を行い、さまざまな社会的属性と投票行動との関連を分析するとともに、投票行動への各種のコミュニケーションの影響の研究をなし、「コミュニケーションの2段階の流れ」の仮説の提起、ならびにパーソナルなコミュニケーションの影響の予想外の強さを指摘した。
その後、社会的属性と投票行動との関連を追究する研究は精緻 (せいち) の度を加え、性、年齢、学歴、職業などのデモグラフィック(人口統計学的)な要因を軸とした分析が重ねられている。その結果アメリカでは、人種、宗教、労組への加入・非加入などが投票を左右する重要な要因とみられている。日本でもいくつかの同様な研究があるが、日本の場合、企業、労組、宗教団体、利益集団などの所属集団が準拠枠組みとして重要な要因をなしているとする研究がある。
だが、前述の社会的属性や所属集団による分析は重要性をもつにしても、なおそれだけでは、内外情勢の変化に対応した投票行動の変化や、人間の心理的内面にまで及ぶ分析をすることは困難である。そうした研究で画期的な成果をあげたのは、キャンベルAngus Campbell(1910―1980)を中心とするミシガン大学サーベイ・リサーチ・センターのメンバーが試みた調査といいうる。彼らはまず記述的な分析をなし、そこでは政治的関心、投票決定過程、1948年選挙と1952年選挙の比較、党や候補者のイメージ、投票者と棄権者、共和党支持者と民主党支持者のデモグラフィックな特性の分析などをなした。そして次に投票行動の動態的な分析を試み、そこでは党、争点、候補者の三つの変数を動機づけのファクターとし、それらと政治参加の度合い、および投票の方向との関連の分析をなした。また三つの変数の相互作用ならびに交差圧力の研究もそこではなされている。そうした分析を可能とするために、彼らは、党支持の強度、争点へのかかわりの広さと深さ、候補者の魅力度を問い、変数を測定可能なものとしている。
ところで、こうした分析をなすためには、態度構造、認知構造、集団への忠誠構造などにメスを入れる必要がある。そのうち態度構造を考察するとき、もっと基底的な人の生き方まで問題としようとする分析が現れた。それが社会学者の飽戸弘 (あくとひろし) (1935― )のライフスタイルの分析である。ここでは人の生き方の基本的スタイルまでが対象とされる。
何党に、あるいはだれに投ずるかは基底にライフスタイルがあり、性、年齢、職業、社会的地位、収入、所属団体などによって特定の傾向が生じ、それに党、争点、候補者といった変数が絡む。さらに支持政党といっても、そこに強弱があり、また情勢や候補者によって投票対象が異なる。さらに支持政党も、特定政党だけでなく、ある一定の複数政党を支持し、そのいずれでもよいという支持政党の幅がある。また逆に、この党や候補者はどうしても支持できないといったケースもある。さらに、好きな政党はないという無党派層も存在する。ひとりひとりの投票には、当人が意識しているとしていないとにかかわらず、複雑な要因が働いている。
さらに、議員は「国民の代表」または「地域社会全体の代表」たるべきだと理念的にはいいえても、無意識的にせよなんらかの代理人的要素を求める潜在心理が介在してくる。国民の利益とは、さまざまな相対立する利害のぎりぎりの線での妥協によって成立するものだとするならば、代理人的要素を一概に批判しさることはできない。議員選挙とは、種々の要因に規定されながらも、社会の諸利害の対立を議会内の党派の対立に置き換える作業であるし、首長選挙は、首長に多数意見を試みさせる機会を与えるものと解しうる。しかし、1人しか当選しない首長にしても批判票を無視することはできず、その意味では、社会における諸利害の対立は多かれ少なかれ首長を拘束し、首長の下でそれら利害の統合的作用が営まれるといいうる。
[富田信男]
▲キャンペーン
前述したところは主として有権者の投票行動に焦点をあてたものであるが、それは、党や候補者のキャンペーンによっても多かれ少なかれ影響を受ける。とりわけマスコミを通しての宣伝は広く社会に行き渡る。
マスコミの影響力が認識されたのはかならずしも新しいことではない。古くは1874年(明治7)に自由民権運動が開始され、それが全国に燎原 (りょうげん) の火のように広がった背景の一つは、彼らが民撰 (みんせん) 議院設立建白書を『日新真事誌』に発表したからであった。時代は下ってロシア革命前夜、レーニンは党機関紙を宣伝・扇動活動と組織活動に有効に結び付けた。1915年(大正4)の日本の総選挙に際して大隈重信 (おおくましげのぶ) 首相は、自己の演説を吹き込んだレコードを全国各地に配付して大きな成果を収めた。1933年にはアメリカ大統領F・D・ルーズベルトは、ラジオを通じて、あたかも国民ひとりひとりに訴えかけるように話して大きな反響をよんだ(炉辺談話)。戦後では1960年のアメリカ大統領選挙におけるケネディ対ニクソンのテレビ討論がケネディに勝利をもたらした一因であるとされた。年代、事例ともまちまちであるが、新聞、レコード、ラジオ、テレビなど、それぞれの時代の新しいメディアが政治キャンペーンに大きな影響を及ぼしたことがうかがえる。
ところで、マスコミの影響とは何か。昨今の調査によると、マス・メディアを利用しての直接的な宣伝、あるいはマスコミの報道や解説がストレートに国民に影響を与えることは意外に少ないと報告されている。支持対象を決めるにあたっては、さまざまな複合的な要素が働く。たとえば、宣伝、報道、解説などは地元や特定集団のオピニオン・リーダーがいったん受け止め、そのオピニオン・リーダーの意見が影響を及ぼすということがある。いわゆるコミュニケーションの2段階の流れである。しかし、直接的であれ、間接的であれ、また影響を受ける人がわずか数パーセントであったとしても、選挙結果はその数パーセントで大きく変わりうることがあることに留意する必要がある。
そのほかマスコミの影響として、確認効果、アナウンス効果、争点形成機能の三つを選挙との関連であげうる。確認効果とは、Aを支持し、Bを支持しない場合、マスコミに接することで、やはりAはよく、Bはだめということを確認し、Aはよいという認識をさらに強める効果をいう。この背景には、好きなものだけ見聞きするという選択的接触の問題もある。ついでアナウンス効果とは、選挙予測がなされた場合、当確といわれたときに運動に緩みが生じたり、彼はだいじょうぶだからと票が他に移動したりすることをさし、これとは逆に接戦と予測されたとき、あるいは落選と目されたときは、また別の反応をおこす。これも無視できない問題である。第三の争点形成機能とは、各党・各候補者がそれぞれ重点政策を打ち出すものの、マスコミが今回の争点はこれだと打ち出すことで、その争点によって影響を受けることをさしている。このようにマスコミの機能も多角的であるが、なんらかの意味で影響を与えていることは事実で、それの影響力を無視していまや選挙を論ずることはできない。
ところで、選挙キャンペーンは、ある意味では商品販売合戦である。フランスの雑誌『エスプリ』編集長を務めたドムナックJean-Marie Domenach(1922―1997)は、アメリカ大統領選挙のパレードはチンドン屋の広告と違わないと述べているが、選挙用ポスターは一種の商品広告であり、シンボル・マークは商標であり、スローガンは商品上のモットーである。ここでは、戦時中の心理作戦のために開発された宣伝技術、それに昨今のコマーシャルの最新技術がどんどん取り入れられ、党や候補者のイメージアップが図られる。人格、識見、態度、風采 (ふうさい) 、肩書、職業、所属団体、出身校、出身地など、はったりでもなんでもよいからともかく売り込む。また、さまざまな公約を振りまいて利益誘導を試み、それを実現するだけの力があることを宣伝する。かくして候補者はしだいに一個の商品と化してゆく。知名度を高めるために、候補者名が繰り返し宣伝される。そして可能なら、対立政党、対立候補のイメージダウンもぬかりなく図る。
このように政党や候補者は、あらゆる機会をとらえて売り込みを図るが、それだけでは不十分で、同時に票田づくりをなす。親類縁者はもとより、地域集団、利益団体、同窓会、宗教団体など、人と人のつながりや利益が結ぶ線をたどって票田づくりが進められる。そうした人的コネの総合集大成が後援会ということもできる。
心理的側面からいうなら、候補者は垂直的威信を示すか、水平的親近感を抱かせるか、どちらにどれだけの比重を置くかが重要なポイントとなる。つまり一般庶民と異なる人格・識見あるいは才能などを宣伝することで、カリスマ的威信を示すか、あるいは庶民性を示すことで親近感を抱かせるかは、セールス上の岐路である。ヒトラーや吉田茂は前者に相当し、ルーズベルトや田中角栄は後者に該当するといえよう。いずれにしても威信ないしは親近感を徹底的に抱かせれば、キャンペーン上は成功したといいうる。
こうした売り込みを図るにあたって、既述の属性別の投票行動の特質、国民が希求しているものを調べる調査、各地域の特性などは有用な情報といいうる。アメリカ大統領選挙では、投票間近ともなると、国レベル、州レベル、さらにもっと細かなデータを日に2回もコンピュータにインプットし、毎日、情勢を評価する会議を開くというケースもみられる。選挙キャンペーンを請け負う企業も日本やアメリカでは輩出している。
だが、アメリカの1976年大統領選挙でのカーターの当選は、ベトナム戦争やウォーターゲート事件を抜きにしては考えられず、1967年(昭和42)の東京都知事選挙における革新系の美濃部亮吉 (みのべりょうきち) の当選は、物価、公害、福祉などの諸問題が当時クローズアップされたことが一つの原因となっている。また同じ都知事選で1979年に保守系の鈴木俊一が当選した背景には、都の赤字や景気の落ち込みが大きく作用したといえるであろう。これら選挙の事例にみられるように、選挙にあたって有権者は政党や政治家の過去を裁き、新たな未来を選択しているといえる。そのことは、社会的属性や地域的特性、キャンペーンの巧拙、候補者の知名度、固定票の多寡などによって、投票行動は大きく規定されるものの、内外情勢の変化やその時々の争点にも左右されることを示す。したがって、選挙を考察するときには、前述のような多角的視野が要求されるのである。
[富田信男]
▲選挙制度
選挙は、その制度によっても影響を被る。まず選挙区制についていうなら、大別して小選挙区制、大選挙区制、比例代表制の三つに分けられる。小選挙区と大選挙区は、1選挙区当りの議員定数が単数であるか複数であるかによって分けられる。日本の衆議院選挙区は1946年(昭和21)総選挙を除き、1925年(大正14)の選挙法改正から1994年(平成6)まで中選挙区制が施行されたが、これは原則として各県を1選挙区とする大選挙区制と区別するために中選挙区制と名づけられたもので、学問的には大選挙区制の一種である。比例代表制は、各党の得票数に応じて議席を配分することを基本としている。なお、イギリスおよびアメリカ、カナダをはじめ旧英領植民地で後に独立した国々はおおむね小選挙区制を採用しており、ヨーロッパ大陸は比例代表制を導入している国が多い。
ところで、前記の選挙区制のうち小選挙区制と大選挙区単記制を多数代表法といい、大選挙区連記制と比例代表制を少数代表法という。多数代表法は多数党に有利な制度であるということからそう名づけられたもので、一般的にはそういいうる。つまり、各党得票率が全国的に平均化していれば、小選挙区制や大選挙区連記制は多数党に断然有利である。しかし、各党得票率に地域的偏差がある場合、一概に多数党有利とはいいきれない。ちなみに、A・B・C・D4党があり、それぞれの得票率がA40%、B30%、C20%、D10%とし、甲・乙・丙・丁の4選挙区があり、4選挙区とも4党すべてが候補者をたてたとすると、数字的にはA党が4議席独占のケースから、A党ゼロ、B党1、C党2、D党1というケースまで18通りが考えられる。
なお、少数代表法は民意を正しく反映しない場合があると批判される。ちなみに、イギリスで、サッチャーが率いる保守党が圧勝した1983年の総選挙でも、同党の得票率は42%であり、1997年の総選挙においても、ブレアが率いる労働党が得票率44.4%にもかかわらず全当選者の64%を占める大勝利を博したことを指摘しうる。しかし、選挙は政治的統合的機能を一つの重要な役割としてもっているわけで、特定の時点での議会内の多数意見をいちおう国民の意思とみなすことで、政治のスムーズな運営が可能となる。政治的自由、言論の自由が保障されている限り、その多数意見とされたものを否定するチャンスは次の選挙にあるわけで、選挙が民意と政治のずれを正す自動調節作用を営むなら、小選挙区制など多数代表法を排する理由はとくにない。むしろ、小選挙区制は野党連合を促す契機となり、与野党逆転の可能性を増大させるかもしれない。それは、共産党の進出を抑制するためにフランスで1958年にドゴールが復活させた小選挙区2回投票制が、1973年以降かなり長い期間、左翼連合に有利に機能したことでも例証されよう。ただしフランスは1986年に比例代表制に再度変更したり、また小選挙区2回投票制に戻ったりしている。
ところで比例代表制など少数代表法は、少数党も得票に応じて議席を確保できるし、死票はゼロに近くなるという利点がある。また選挙を政党本位とする点では比例代表制がもっとも優れている。ただし比例代表制では人物が選びにくいという批判がある。完全拘束名簿式であれば、老朽議員、無能議員、灰色議員などを国民は排除しえない。そこで、比例代表制を採用している国でも、スウェーデンやスイスのように人物を選びうる配慮を種々なしている国が少なくない。なおドイツは小選挙区比例代表併用制を採用しており、全議席の政党別配分は第2投票である比例代表制で決まり、当選者をだれにするかというとき、全議席の半分は第1投票である小選挙区で当選した者をあて、残りの半分は党があらかじめ定めておいた名簿の順に従って当選者を定める。この方式では、当選者数は党派別得票数で決まるが、全議席の半分は人の要素を生かしているといいうる。
日本では1994年(平成6)に政治改革関連4法が成立し、その一つとして衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入された。議員定数は当初500(小選挙区選出300、比例代表選出200)であったが、2000年の公職選挙法改正で比例代表選出180となり、2012年の改正で小選挙区選出は295となった。この制度は、中選挙区制下においてみられた、同士討ちや金権選挙を排除しようという意図で採用された。比例代表は少数政党でも代表を出しうるようにという配慮で導入されたものだが、小選挙区と比例代表区の重複立候補を認めたこと、小選挙区選挙での多額な金の費消、各党支部と個人後援会の同一化とそれによる政治資金収支の不明瞭 (ふめいりょう) 化などの批判があるほか、理念の異なる小選挙区制と比例代表制を並立させたことにも批判がある。
[富田信男]
▲普通平等選挙
選挙区制とは別に平等選挙ということが民主政治の大前提である。「1人1票、1票の等価値」one man one vote, one vote one valueこそが民主政治の要である。かつてはどこの国も制限選挙であった。財産、納税額、性、人種などによって差別し、貧困者、女性、そしてアメリカなどでは黒人は選挙から排除された。つまり、だれもが1票をもつという民主政治の基本原則が貫かれていなかったのである。ちなみにフランスの1791年憲法下の選挙人(能動的市民)の数は国民の0.2%弱にすぎず、日本では1890年(明治23)時、有権者の数は国民の1.1%にすぎなかった。フランスでは財産により、日本では納税額によって差別が設けられた。こうした制限選挙を打破しようとしておこったのが各国における普通選挙運動である。かくして議会制民主主義の母国といわれるイギリスで男子普選が確立したのは1918年、男女普通平等選挙が確立したのは1928年である。それでもなおイギリスでは完全な平等選挙が実現したわけでなく、大学卒業生は居住地以外に大学選挙区でもう1票、一定の営業所の占有者も居住地以外に営業所所在地でもう1票行使しえた。それがすべて廃止されたのは1948年である。
日本で男子普選法が成立したのは1925年(大正14)、女性(婦人)参政権が確立したのは1945年(昭和20)である。今日では、いずれの国でも性、人種、宗教、言語、身分、財産などによる差別は皆無に近くなったといってよい。
ところで、1人1票が確立しても、1票の価値が異なっていては完全な平等選挙とはいいがたい。1票の価値が甚だしく違う事例としては等級選挙をあげうる。等級選挙には2級選挙法とか3級選挙法といったものがあるが、3級選挙法を例にとれば、納税総額を三分し、納税額の多いものから順次数え、その累計納税額が納税総額の3分の1になったところで打ち切り、それを1級選挙人とし、次の3分の1を充当するものが2級選挙人、残ったものが3級選挙人で、各級とも同数の議員を選出するものである。そのため1級選挙人の1票の重みは3級選挙人の何十倍、何百倍にも達した。この制度はかつてプロイセンやルーマニアで、日本では1889年より1926年まで地方選挙で実施された。
等級選挙法のような制度は今日ではまったくみられないが、別の面で1票の価値に格差が生じている。それは人口移動を原因としている。日本を例にとると、第二次世界大戦後の衆議院各選挙区の議員定数は初め1946年(昭和21)の人口を基準にして定められた。1946年といえば、戦時中の疎開、空襲、出征などで大都市人口がきわめて少なかった時期である。しかし、その後の経済復興、高度成長で人口の都市集中が進み、そのため議員1人当りの人口に大都市と農村とでは著しいアンバランスが生じた。その格差是正のため、1964年と1975年に定数是正が行われたが、小幅な是正にとどまり、なお格差が残り、1983年の総選挙時には4.40倍に達し、最高裁は1985年にこれに対して「違憲」の判決を下した。このため1986年に再度定数是正がなされた。
こうした定数と人口のアンバランスに対し、ドイツでは各選挙区とも格差は全選挙区の平均値人口数から上下3分の1以内でなければならないとされ、アメリカでは許容範囲はほぼ1.2倍以内とされる。もっともアメリカでは、1対1.06で違憲としたミズーリ州の判決もある。許容限度を何倍以内とするかは政治的判断の問題だが、1票の価値のあまりの不均衡は、民主政治の1票の等価値という大原則から外れているといわざるをえない。
[富田信男]
▲選挙研究
選挙とは、究極的には、大は国際的諸団体から小は私的サークルまで、それらの集団にあって、構成員の意思に添った運営がなされるため、その衝にあたる人々を選ぶ手続である。もしその過程で腐敗手段が用いられたり、制度にゆがみがあれば、構成員の意思が正しく反映されないことになる。しかし、構成員の意思とは何か。集団が大きくなればなるほど、その意思は多元的で複雑になる。そこで、選挙の研究にあたっては、民意測定のための調査、客観的指標を用いての分析などが必要となる。そして構成員の意思はどのように形成されるのか、その意思と選挙結果との間にずれがないか、ずれがある場合はどこに問題があるのかなどの考察が肝要である。そうした研究は選挙の本質をつかむうえで不可欠なことといえよう。
[富田信男]
・参照
日本大百科全書(ニッポニカ)