英国史から見るバプテスト派形成の流れについての少考察


 英国史を概観しながら、バプテスト派が形成されていく流れをこのレポートから学び、どのような社会や歴史の文脈から、自身が所属しているバプテスト教会が形成されて行ったのかを知りたい。

 

1.イングランド的宗教改革

 ヘンリー8(Henry , 1491-1547)から統治時代から始める。1509年ヘンリー8世は17歳で即位した。その年の6月に亡き兄の結婚相手であった、キャサリン(Catherine of Aragon,1485-1536)と結婚し、スペイン王室との連携を強めた。また、神聖ローマ皇帝(スペイン王)カール5世とフランス王フランソワ1世の争いにおいては、王妃キャサリンがカール5世の叔母でありハプスブルク家出身であり、カール5世を支援した。しかし、キャサリンから男子が生まれず、王位継承権が得られなかったため、キャサリンとの結婚を解消し、アン・ボーリンとの結婚を画策した。1527年、ヘンリー8世は教皇クレメンス7世に「キャサリンとの結婚は無効であった」と申し出をした。教皇はこの申し出を承認しなかった。1533年、ヘンリー8世はトマス・クランマー(Thomas Cranmer, 1489-1556)を大司教に任命し、ヘンリー8世の婚姻無効と再婚を認め、イングランド議会もこれを承認した。さらにこの年、議会は「教会税廃止令」を可決した。1534年、ローマ教皇パウルス3世はヘンリー8世を破門した。またこの年、議会は「国王至上法」を可決し、イングランド国王を「イングランド国教会の地上における唯一の首長」と宣言した。つまり、ヘンリー8世はローマ教皇の支配から離脱した新しい教会であるイングランド国教会の最高首長となった。とは言え、大陸で起こっていたルター派の宗教改革とは異なり、ヘンリー8世の目指したものは、イングランド的カトリックのようなものであり、教義も礼拝形式もカトリックに近いままであった。

 

2.エドワード6世による宗教改革促進からメアリーによる再カトリック化

 ヘンリー8世の後継はエドワード6(Edward 1537-1553 在位1547-1553)であった。エドワード6世は9歳で即位したため統治能力が未熟であり、摂政議会が力をもつようになった。この議会はプロテスタント側が大きな力をもっていた。1549年にイングランド国教会の礼拝形式を定めた「礼拝統一法」(Act of Uniformity)が制定された。さらに同年、主にクランマーの筆による「祈祷書」も公布された。祈祷書の序文には「イングランド教会における礼拝は、過去何百年の間、人々の理解しえないラテン語で行われ、……、心が教化されることはなかった。……会衆の教化のために教会内ではすべて英語で唱えられ、歌われるべきである」[1]とあり、明確なローマカトリックに対する否であり、母国語礼拝への意思を読み取ることができる。しかし、エドワード6世は16歳で病死した。

 その後、ヘンリー8世の最初の王妃であったキャサリンとの娘であるメアリー(Mary Tudor, 1516-1558 在位1553-1558)が即位した。出村彰はメアリーについて「メアリーはハプスブルク家の人間としての矜持とカトリックの信仰を捨てることはなかった。……メアリーの努力のすべては、イングランドを再びローマ聖座への従順に復帰させることに注がれた」[2]と述べる。具体的には、カトリック司教を復職させ、改革者はすべて投獄し、プロテスタント信仰を否認する署名を強制した。さらに、宗教改革時の法律を廃止し、礼拝形式はヘンリー8世統治期のものに戻した。教会のプロテスタント化を進めてきた聖職者など約300人を捕らえて焚刑にした。修道院の解散などの宗教改革で利益を得ていた地主層や、カトリック教会の横暴を恨んでいた多くの市民は彼女を「血のメアリー」(Bloody Mary)と言い憎悪した。クランマーも1556年に焚刑にされた。このとき死を恐れ、プロテスタント信仰を否定する署名をしたことについて、ムアマンは

 

「この手が罪を犯したので真っ先に罰せられる」と叫び右手を炎にかざし、署名した臆病を詫び、署名撤回を宣言し「彼は微動だにせず、叫び声一つあげずに、火が上がるや否や絶命した」[3]

 

と記述している。さらに、メアリーは1554年スペイン王フェリペ2(Felipé 在位1556-1598)と結婚し、イングランド国民の感情を逆なでし、各地で反乱が発生するようになった。

 

3.エリザベス1世の中道策

 1558年メアリー亡き後ヘンリー8世の遺児は25歳のエリザベス1(1533-1603在位1558-1603)しか残っていなかった。エリザベス1世の宗教政策はローマカトリックからは断絶し、エドワード6世体制に戻すものであった。1559年「首長令」と「礼拝形式統一令」を議会で可決しローマから再び決別する。斎藤剛毅は「エリザベスの統治下で確立された国教会は、礼拝形式的にはカトリックの伝統を守り、信条・教義的にはプロテスタント主義を重んじる中道的立場をとった」[4]と記述する。1588年、強大なカトリック教国であったスペインの無敵艦隊をアルマダ海戦においてイングランドの艦隊が破ったこともエリザベス1世の宗教政策の体制を維持することに優位に働いた。しかし、英国内のカルヴァン派はエリザベス1世の中道政策であるカトリック的儀式や国教会の主教制を一掃し純化することを求めるようになった。斎藤剛毅は「国教会内にあって聖書に従う改革を行おうとしたイングランドにおける宗教改革運動の推進者たちをピューリタン(清教徒, 純粋派)と呼ぶ」[5]と記述する。中道政策の問題点は改革の不徹底に対する不満を解消できないことであるかもしれない。

 

4.ジェームズ1世の統治と国教会への肩入れ

 1603年エリザベス1世逝去後、スコットランド王をイングランド王に迎え、ジェームズ1(1566-1625 在位1603-1625)と称されるようになった。国教会強硬派を支持し、カトリック教徒、ピューリタン双方の失望を招き、1605年熱狂的なカトリック信者たちが、国会議事堂の爆破と、ジェームズ1世と議員の爆殺をはかった火薬陰謀事件やピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)の新大陸移住を促す結果となった。1608年、国教会内にとどまりながら純化をめざすことは不徹底であると考えるジョン・スマイス(John Smyth, 1570-1612)などピューリタン分離派はオランダのアムステルダムに渡った。斎藤剛毅は「スマイスはオランダ・メノナイト派の急進派との接触により、自覚的信仰によらない新生児バプテスマは許容されない事に気づき、聖書と初代教父文書から新生児洗礼は聖書の教えに反すると確信を得、分離派教会を解散し、1609年オランダにおいてバプテスト教会を誕生させた」[6]と記述する。1612年、ジョン・スマイスがメノナイト派との教会合併に対して反対したトマス・ヘルウィス(Thomas Helwys, ?-1616?)はイングランドにおいてバプテスト教会を設立した。ヘルウィスはジェームズ1世に『邪悪のミニストリー』を献辞し、投獄され1616年頃獄中死する。1616年、ヘンリー・ジェイコブ(Henry Jacob, 1563-1624)はロンドンにおいて非合法集会から会衆主義教会を組織する。ピューリタン分離派と国教会内のピューリタンとの交流を妨げないなどの教会観であった。

 

5.ピューリタン革命から王政復古

 1625年、チャールズ1(Charles ,1600-1649 在位1625-1649)が王位を継承すると、強烈な国教会派であるウィリアム・ロード(William Load, 1573-1645 在職1633-1641)を大主教に任命し、ピューリタンの弾圧を強めた。J.ゴンサレスは「政府の宗教政策に対する不満が膨れ上がり、教会は聖書的でない一切の事柄から清められなければならないと、『ピューリタン』(Puritans)が主張。議会の支持を獲得、増大させた」[7]と書く。1642-1649年、イングランドでは、中小封建領主層であるジェントリはステュアート朝の絶対王政を打倒しようとした。革命層にピューリタンが多かったため、ピューリタン革命(清教徒革命)とよばれる。1644年バプテスト派(パティキュラー)「ロンドン信仰告白」を発表した。内容は斎藤剛毅によると「聖書に基づく正しいバプテスマは浸礼であると明記し、カルヴァン主義神学に立脚していた」[8]と書く。1649年、戦いに破れた国王チャーチルズ1世の処刑を経て、共和制となったが、その指導者オリヴァー・クロムウェル(1599-1658)による独裁政治がなされた。1650-1659年、共和制期においては、信教の自由が大幅に認められた。この時期にバプテスト派は積極的な伝道を行い、地方連合を結成できるようになった。クロムウェルの死後、1660年、長老派を中心とする議会は、議会の権限の尊重を国王に約束させることを条件にフランスに亡命中のチャールズ2(在位 1660-1685)を王位に迎えることを決議し、王政を復活させた。バプテストの中にはクロムウェルの軍隊において勇敢な働きをした者が多く、過激なアナバプテストがミュンスターにおいて事件を起こしたことも重なり、バプテスト信者は国家に対する反乱分子であると中傷・批判する印刷物が出回るようになる。これに反論するために同年ジェネラル・バプテスト派は「標準信仰告白」を発表した。しかし、チャールズ2世の統治下において、万人祭司論を展開し、説教をするバプテスト信者は迫害された。信徒説教を行ったジョン・バニヤン(1628-1688)も投獄され、獄中において、『天路歴程』(11678, 21684)や『聖戦』などの文学作品を書いた。

 J.ゴンサレスは「非国教徒への寛大さが以前より増しはしたものの、最終的には革命以前のそれとごく似た状況で落ち着くところとなった[9]」と書く。また、斎藤剛毅は「チャールズ2世の統治期、教会は主教政治に戻り、ピューリタンの牧師の多くが投獄される事態に発展した」[10]と書く。ピューリタン革命によって、一足飛びに、非国教会派に対する弾圧がなくなったわけではないということが2名の記述からわかる。

 

6.「名誉革命」へ

 カトリック教徒であったジェームズ2(James , 1633-1701, 在位1685-1688)の統治は、プロテスタント側にカトリックの再興を抱かせるような反動であった。議会においては、王権派のトーリー党と王権との対立を辞さないホイッグ党とのが対立していた。英国各地で反乱が発生するようになり、ジェームズ2世とその子息は1688年にフランスに亡命することになった。これは「名誉革命」とよばれている。議会はオランダから1688年オレンジ公ウィリアム3世と妻メアリー2世がその後を継いだ。J.ゴンサレスは「宗教政策はかなりの程度寛容なものとされ、国教会の教義的立場をまとめた宗教綱領であり、1562年エリザベス統治下に承諾された『イングランド教会の39箇条』の遵守を条件とするとは言え、信仰とその実践の許容度が大幅に増大した。スコットランドでも『ウェストミンスター信仰告白』が採択され長老派主義が王国の信仰となった。」[11]と述べる。非国教徒の信仰の自由が認められるようになった出来事は「名誉革命」によるところが大きいと考えることができる。「名誉革命」という名称についてだが、G.M.トレヴェリアンは

 

 この名誉とは、何らかの武勲とか、英雄的行為とか、一国民が一丸となれば暗愚な国王を追放できることを実証したとかという事実に存するのではない。それどころか、イングランド人が気違いじみた党派間の反目の中で浪費してしまった自由の回復をはかるために、外国の軍隊を必要としたことは「不名誉」なことである。イギリス革命の真の「名誉」は、それが無血であったこと、内乱も大虐殺も人権剥奪もなかったこと、そしてなかんずく、人々と党派をかくも久しく、かくもはげしく分裂された宗教上、政治上の意見の相違について、同意による解決に到達しえたという事実にこそ存するのである。[12]

 

と「名誉革命」について定義を述べている。宗教的意見の相違から同意と解決に導いた出来事として、たしかに「名誉」ある出来事であったと思う。

 

7.名誉革命後の体制と寛容法

 議会による立憲君主制が形成された。国王を首長とする英国国教会が国家宗教として成立することになった。名誉革命後において、英国における、カトリック対国教会における趨勢は、国教会に完全に軍配が上がったと考えられる。そして、次の対立軸として考えられるのは、国教会対非国教徒である。1689年、王権の制限、議会の権限を定めた文書である「権利章典」の他に、「寛容令」が議会において制定された。「寛容令」とは、国王に忠誠を誓いさえすれば、非国教徒であったとしても宗教的罰則の適用から除外されるというものであった。ただし、カトリック教徒とプロテスタントの一部の急進派(ユニテリアン)や無神論者は除外された。この法律は非国教会を支持者とするホイッグ党が制定を進め、国教会寄りのトーリー党が妥協して成立した。斎藤剛毅は「このようにして、バプテスト教会、長老派教会、独立会衆派教会など福音主義自由教会への迫害は終わりを告げた」[13]と述べている。非国教徒に対しては寛容な措置をとり、国内融和を目指したものと思われる。「寛容令」の成立は、約200年間に渡って続いた、カトリック、国教会、非国教徒と宗教的混迷が一応の形で融和された出来事であったと思う。

 

8.所感

 ヘンリー8世統治期1509年から「寛容令」1689年までのおおまかな英国史をキリスト教史中心に追った。この約200年の英国におけるキリスト教は、ローマカトリック、英国国教会、ピューリタン、ピューリタン分離派、バプテスト、様々な立場のキリスト教が時代のかなで揺れ動きながら、形成されていると思った。また、ローマカトリックのキリスト教を上から外部から一方的に押し付けられるものであった状況から、外部ではなく国教会がキリスト教を管理する状況となり、さらに民衆が自覚的キリスト教を考えるようになる。この事が認められるようになるまで、粘り強く、お上の言うことに逆らい聖書を基準に思想を深めていったものだと驚かされる。特に、英国において多数派というわけではなかった、バプテスト派の主張に対する、一途さ、頑固さ、諦めの悪さはどこから生じているのだろうかと思った。

 キリスト教が上からの統治機構の一端を担うシステムだけでなく、個人がどう聖書やキリスト教と向き合うのかという、考え方を生み出したことは、この後18世紀後半、産業革命や近代化において、個人主義が台頭する中でどのような影響を与えたのだろうか。それは本当に可能であったのかを調べてみたい。

 

9.参考文献

l  G.M.トレヴェリアン, 大野真弓()『イギリス史(2)(みすず書房, 1974)

l  J.R.H.ムアマン, 八代祟()『イギリス教会史』(聖公会出版, 1991)

l  J.ゴンサレス, 金丸英子()『これだけは知っておきたいキリスト教史』(教文館, 2011)

l  斎藤剛毅()『資料バプテストの信仰告白(改定版)(ヨルダン社, 2000)

l  出村彰『総説キリスト教史 (2) 宗教改革篇』(日本キリスト教団出版局, 2006)

l  八代祟()『宗教改革著作集 (11)』「祈祷書序文(1549)

l  松岡正樹, 斎藤剛毅, 村椿真理, 金丸英子, 枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会, 2011)



[1] 八代祟()『宗教改革著作集 (11)』「祈祷書序文(1549)

[2] 出村彰『総説キリスト教史 (2) 宗教改革篇』(日本キリスト教団出版局, 2006) pp.167-168

[3] J.R.H.ムアマン, 八代祟()『イギリス教会史』(聖公会出版, 1991) (参照)

[4] 松岡正樹, 斎藤剛毅, 村椿真理, 金丸英子, 枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会, 2011) p.25(参照)

[5] 松岡正樹, 斎藤剛毅, 村椿真理, 金丸英子, 枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会, 2011) p.26 (参照)

[6] 松岡正樹, 斎藤剛毅, 村椿真理, 金丸英子, 枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会, 2011) pp.29-30 (参照)

[7] J.ゴンサレス, 金丸英子()『これだけは知っておきたいキリスト教史』(教文館, 2011) p.149

[8] 斎藤剛毅()『資料バプテストの信仰告白(改定版)(ヨルダン社, 2000) pp.457-458

[9] J.ゴンサレス, 金丸英子()『これだけは知っておきたいキリスト教史』(教文館, 2011) p.149

[10] 松岡正樹, 斎藤剛毅, 村椿真理, 金丸英子, 枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会, 2011) p.52(参照)

[11] J.ゴンサレス, 金丸英子()『これだけは知っておきたいキリスト教史』(教文館, 2011) p.151(参照)

[12] G.M.トレヴェリアン, 大野真弓()『イギリス史(2)(みすず書房, 1974) p.199

[13] 松岡正樹, 斎藤剛毅, 村椿真理, 金丸英子, 枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会, 2011) p.56


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