概説
セルバンテスの小説の小説『ドン・キホーテ』をものにしたミュージカル作品である。今回、鑑賞した作品は1972年にアーサー・ヒラー監督、アルベルト・グリマルディ制作指揮によって、映画化された作品である。
脚本は、セルバンテスがセビリアにおいて投獄されていたときに、『ドン・キホーテ』を着想したという事実に基づいたものとなっている。構造として、(ⅰ)セルバンテスと囚人たちが『ドン・キホーテ』の物語を演じている場面(ⅱ)演じている物語における、アロンソ・キハーナと登場人物たちの場面(ⅲ)キハーナの妄想による場面。この3つの場面が重箱のように重なった構造となっている。
現実と妄想が混濁するとき
物語のためには妄想は必要不可欠である。妄想なくして物語はできないと言っても良いかもしれない。物語に必要であるのは、想像であって妄想ではないという反論も想像される。国語辞書をひくと、想像は「実際には経験していない事柄などを推し量ること。また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと」であり、妄想は「根拠もなくあれこれと想像すること。また、その想像」私は、どちらも大して差はないと思う。しかし、妄想は現在では精神病の症状として扱われる内容であるようになっている。『ドン・キホーテ』においても、キハーナは周囲の世話焼いてくれる人々からは、悪魔に騎士物語という悪魔に取りつかれているというような、かわいそうな人というような扱いを受けている。これは、今の精神病とにたような扱いといえるかもしれない。
妄想の方向性
これを書こうとしているときに痛ましい事件が発生した。京都アニメーションというアニメ制作会社の制作現場に、ある男性がガソリンを撒き火を放った。報道によると、この男性は、犯行理由を「(京都アニメーションが自身の)小説をパクった」からであるとの推測を報じている。世の中には、無数の物語が存在しており、大枠だけを考えても、似ている物語だらけと言ってもよい。ディズニー作品のプリンセスだけで一体何人いるのだろうかという現状である。小説を盗まれたというのも犯行に及んだ男性の妄想である可能性は極めて高い。妄想から現実の行動として、ガソリンを買い込み、スタジオでガソリンを撒き、火をつけ、全く接点もなく個人的に恨みを抱いていたわけではない34名を殺害することができるのだ。負の妄想、自己中心他者迫害的妄想、優しくない妄想と言えるかもしれない。このような妄想は悲惨がすぎて物語にできない。
キハーナの妄想も確かに迷惑をかける類の妄想である。酒場で娼婦を守るために乱闘を起こす。宿屋の店主からしてみれば迷惑でしかない。キハーナ自身の騎士としての名誉欲はあったかもしれないが、この妄想は、ただ、自身のためだけの妄想というわけではない、姫を救う騎士として自己犠牲や優しさが存在している。
2つの妄想の方向性が異なると思うが、その違いを生じさせたことは、私は、キハーナの周りには彼を気にかけてくれる優しい人が誰かはいたことではないかと思うのである。『ドン・キホーテ』に登場する人物たちは、相手をするだけ面倒くさい気の狂った老人に対して、対応してくれるのである。放火大量殺戮を行った男性の周りには彼を気にかけてくれた人はいたのだろうか。孤独の中での妄想を深めていったのかもしれない。
そして、きれいな妄想、きれいな想像、きれいな物語を送り続けた方々には、世界から多くの方の反応があり気にかけていたと思うと、その喪失の大きさを思わされる。 Dona nobis pacem (私たち(すべての人)に平和を与えたまえ)