ポピュリズム -ブレグジットとトランプ現象をどう読むか? –
ポピュリズムとは議論を尽くすより大衆が喜びそうな発信をして支持を集める政治手法である。政治家が支持を集めるためには大衆が喜びそうな公約を訴えるのは当然である。しかし、ここに民主主義の矛盾がある。国民に媚びだけでは政治はできないのである。ポピュリズムの他の特徴として、エリート軽視や「反知性主義」が挙げられる。高学歴エリートが既得権益を有しており、それを打破する必要があり、大衆の味方を主張するのである。
米国トランプ大統領の演説手法はポピュリスト的である。煽情的なメッセージを根拠なしに繰り返すのである。単純明快な勧善懲悪的で差別的であるが大衆はそれを聞いて賛同と同一観を得るのである。
さて、ポピュリズムといえば、ファシズムと同じようなものであると混合されるがそうではない。ファシズムとはイタリア語の「ファッショ」(束ねる)から来ている。国家を最高の価値あるもの、人間社会の最高の組織と見なし、個人よりも国家に絶対の優位を認める「国家主義」により、市民の政治的自由を束縛し、独裁体制をしくことを「ファシズム」と呼ぶ。ポピュリズムは独裁を意味するわけではない。しかし、独裁的なファシズム体制を築く大衆の支持を集めるために、ポピュリズム手法が使われる。
なぜ、トランプ大統領のようなポピュリストが米国大統領になったのか。それは「ラストベルト」(Rust Belt)「錆びついた地帯」と呼ばれる五大湖沿いのミシガン、オハイオ、ペンシルベニア、ウィスコンシン州の状況が関わっている。この地域は1930年代鉄鋼、自動車工業で栄えた地域であった。しかし、1970年代には海外との競争に破れ工場の閉鎖が相次いだ、そしてペンシルベニア州の石炭使用も低下し、炭鉱が閉鎖、炭鉱労働者も職を失った。このような地域に、トランプ大統領は赴き、鉄鋼など海外製品に対する関税障壁により、工業を復活させ仕事を作ると演説した。この結果、ラストベルトの労働者はトランプ大統領を支持した。また、これらの地域は大統領選挙を左右するスイング・ステートであった。
2018年3月トランプ大統領は鉄鋼に25%、アルミニウムに10%の関税をかけた。しかし、今度はその素材を利用した自動車の生産費用が高騰することになり、アメリカの自動車産業は大量の解雇者を出し、苦境に陥った。さらに、関税は輸入する企業が支払うため、アメリカ企業が追加費用を負担することになった。
ポピュリスト政治家は「自国ファースト」を訴え、厳しい立場に置かれた労働者を煽動する。現在、グローバリズムが進行しており、労働者は自由に移動競争することになり、賃金の低下、失業率も世界的に高まっている。この鬱憤の発露がこれらの現象とも言える。
ポピュリズムに陥るのを防ぐために、政治家を決めるときに間接選挙などの制度ととっている国もある。アメリカの大統領選挙もイギリスのブレグジットを発生させたのも、直接選挙と国民投票であった。多数決は加熱し暴走し、その暴走のために、さらなる被害に合うこともある。そのことを理解し、市民は政治参加をしていくべきだ。
内容について自分の考えを論じる
私は米国の「反知性主義」について考えを論じたいと思う。
米国といえば、スペースシャトルにシリコンバレーに最先端科学と情報技術をもった、知性的な国であるというステレオタイプが中学校高校の地理の教科書には登場する。アイビーリーグに代表された優れた教育機関に各国の学生が集まり、時代の最先端を切り開くようなイメージを私ももっており、「反知性主義」とは無縁の国のように思われる。しかし、近年の報道から伝わる米国は、人種差別問題によって分断が進み、失業者がドラッグ中毒になっている、厳格な超保守派キリスト教が広まるなど、教育が崩壊した地域の末路という印象を覚える。
米国の「反知性主義」とは何かにつて、森本あんり氏の著作を参照しながらまとまる。「反知性主義」を考えることはその建国からの歴史をたどることになる。
米国が誕生する前、ピューリタン入植時代は、英国気風がそのまま米国に持ち込まれた時代であった。その風潮の中でプロテスタント的な大学が次々と生み出され、ごく一部のエリートがその学びに触れることで教会と社会の指導者となっていく道が開かれた。
この指導体制に対して生じたのが「反知性主義」であった。そして「リバイバル」(信仰復興運動)が展開された。エリート知性的なキリスト教に対して感情的なキリスト教を提示された。この運動は、その人物が知性的かどうかに関わりなく「全て神の前に平等である」と訴えた。その結果、リバイバルに触れた人々は、貧富の差や出自、学歴にとらわれない「平等主義」を体現する存在としてまとまり始めた。
米国にやって来た入植者はヨーロッパ的な階級組織は脱してきたはずであった。ところが、新天地でも依然として新たな特権階級は生み出されようとしていた。そこで起こったのがリバイバルである。ここで宗教的に神の前に平等であるという意識を再確認した人々は、常に旧来の知や権威が復興することを拒む戦いをしてきたのである。これが米国版の「反知性主義」の正体であった。「人が神の前で平等であるなら、実社会では平等な競争が可能となる」と彼らは考えた。誰もが自らの努力を積み上げ、才能を開花させることで成功を手にするいわゆる「アメリカン・ドリーム」の風潮も「反知性主義」から生まれた。
私たちが想像する「反知性主義」は、「そんな事も知らないのか、そんな迷信を信じるとは」というものを思い浮かべるが、米国の「反知性主義」は米国の成り立ちやキリスト教的価値観とも関わるものあった。
米国の「反知性主義」は、徹底した機会の平等化と米国的立身出世の基本的な概念と結びついている。そう考えると現在の米国の「反知性主義」はエリートでなくても機会の平等を望む労働者の声を代弁しているようなものであるとも考えられる。
参考文献
池上 彰 (2019)『おとなの教養 2―私たちはいま、どこにいるのか?』NHK出版
森本あんり (2015)『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―』新潮社