フランシス・ベーコン


初代セント・オールバン(ズ)子爵フランシス・ベーコン(英: Francis Bacon, 1st Viscount St Alban(s), PC, QC、1561年1月22日 – 1626年4月9日)

 イギリスの法律家,政治家,哲学者。ロンドンに生まれケンブリッジ大学に学ぶ。ロンドンのグレイズ・イン法学院在学中にパリに行き,帰国後の1582年法廷弁護士になった。84年下院議員に選出されたが,栄達を求め叔父のロバート・セシルに働きかけた。エリザベス女王が最も信頼する重臣セシルもベイコンの要求には応じ得なかった。ベイコンはそこで女王お気に入りのエセックス伯をパトロンとしたが,公的な生活では恵まれず,1601年の反乱の失敗で処刑されたエセックスが反逆者であるという公式文書を執筆する役目を負い,多くの人々に後味の悪い印象を与えた。エリザベス女王が没し,スコットランド王ジェイムズ6世がジェイムズ1世として即位すると,ベイコンは役職を得るため新王への忠勤を励み,英語で書かれた最初の哲学書と呼ばれる『学問の進歩』The Advancement of Learning(1605)を王に献じた。この書は学問の現況を展望し,知識を記憶・想像力・理性に関係するもの,すなわち歴史・文学・哲学(自然学を含む)に三分し,誤った印象にとらわれない知識を確立することを目指す。すべての知識と言いながら,詩は「架空の出来事や事物を精神の要求に従わせる」ので「満足の影のような物を与える」と言うベイコンは,想像力に関係する詩を理性に関係する哲学や正確な記憶による歴史より鋭く区別する点でフィリップ・シドニーと対照をなす。1607年,忠勤が認められ検事次長に任じられ,13年には王と議会との関係についての助言を草し,検事総長に任じられたが,王の特権を擁護するあまり,裁判官の独立を支持する大法律家エドワード・コークと対立を深めた。17年に国璽(こくじ)尚書に,翌年には大法官そしてヴェルラム男爵,20年にはセントオールバンズ子爵に列せられた。60歳にして所期の栄達を遂げたが,ほどなく収賄の容疑で告発され,王に抗弁を禁じられたため,汚職は認めないまま不注意のみを認めた。その結果,官職を失い,4万ポンドの罰金を課せられたうえ,ロンドン塔に幽閉された。まもなく釈放され罰金も免除されたが,この後は思索と文筆活動に専念しながら復権を願った。『学問の進歩』を増補,ラテン語訳することによって読者の国際化を図ったのもこのころ(1623)であり,『随想録』The Essays, or Counsels Civill and Morall(1597)の増訂3版を刊行した(1625)。トマス・モアの『ユートピア』を思わせる『ニュー・アトランティス』The New Atlantis(27没後刊)は未完の遺稿であり『森の森』Sylva Sylvarum: or a Natural History in Ten Centuriesとともに刊行された。傑作『ノヴム・オルガヌム』Novum Organum(20)は独立した作品として扱われるが,ベイコンの構想の中では6部よりなる『大革新』Instauratio Magnaの第2部を構成し,第1部は『学問の進歩』の第2巻の一部分がこれに当たる。本書名は〈新機関〉を意味し,自然を解明する機関として帰納法を提示し,ケンブリッジ大学で学び失望したアリストテレスの学問へのベイコンの解答となる。といっても帰納法は彼が創始したものでもないし,論証の際に仮説を用いたり,スコラ哲学的用語を持ち込んだりするために,ベイコンの方法は意図したほどには近代科学に影響を与えなかった。またベイコンの名とともに有名な4つのイドラ(誤った印象)が論じられるのも本書である。ベイコンはこのような思索と文筆を続けながら名誉回復を待ったが,それが成就する前に雪が腐敗防止に役立つかを調べようとして,気管支炎を起こし没した。


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