バプテスト史 イングランドバプテストの発展・停滞・復興


 クエーカー教徒とバプテストの差はクエーカーは内なる光と聖書 、バプテストは聖書のみとした。クエーカーが1番初めに奴隷解放運動、黒人開放運動を取り組んだ。バプテストは近い主張であったために。クエーカーと競合することになった。

 アナバプテストとは違うのだとパティキュラバプテストが主張したものがロンドン信仰告白である。共同の信仰告白である。今日の信仰宣言と似たようなものである。協同できる最大公約数を模索したものだ。バプテストは浸礼によるものであると定めた。

『見えてくるバプテストの歴史』p.51-(参照)

 18世紀以降のバプテストはどうなったのかを記述。「バプテストは対抗軸によって発展してきた教派である」といえる。(金丸)イングランド国教会に対立する迫害される派閥。1685年ジェームズ2世が即位。王政の打倒。オリバー・クロムウェルは決起兵を組織、バプテスト派の人々は多数協力、しかし、この共和制は8年しか持たなかった。その後、チャールズ2世が即位し、王政復古を試みた。チャールズ2世はカトリック教会を強制をしようとした、1684年に退陣、オランダに援軍を求め、ジェームス2世の打倒をした。国民はオランダからオラニエ公ウイリアムを即位を望んだ。名誉革命と権利の章典を発布。王政はやめる。寛容令を布告。イギリス国民は信仰の自由を得た。非国教会派の許可。政治は議会制に宗教は自由にという激変が起きた。

 そして、バプテスト派は、迫害と対抗する組織がなくなった。対抗軸は消滅した。教会建築に力を入れる、バステストリーや巨大建築が次々と作られた。対抗軸の消滅が衰退を招いたのではないか。そして、産業化が進む時代であった。精神生活も大きく変わることになった。キリスト教会の閉塞 17世紀絶えず宗教問題を解い続けたイギリス国民に無関心の霧が覆っている、宗教よりも、経済、科学などに重きを置くようになった。理性の時代がきたといえる。理神論者が台頭した。宗教的体験の否定、理性で把握できないものは、存在しない。工場は24時間可動。角打ち、モラルの低下これらに対して、英国国教会は無力であった。パティキュラ、ジェネラルともにバプテスト教会はともに衰退。神学的な課題は合理主義者、キリストが偉大な人物ではあるが、神の子である理由がわからない。予定説も危機に、すでに決まっているのに無駄ではないか。バプテストはどのように息を吹き返したのか?

『見えてくるバプテストの歴史』p.65-(参照)

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