ジェームズ1世(在位1603-1625)は、国教会の主教とピュリタン指導者たちを集め「ハンプトン会議」を開いた。この会議において、新しい聖書翻訳が認められた。これが、後に『欽定訳聖書(King James Version)』であり、英訳聖書の最高峰と評価され文学的に高い地位を得るようになった。この聖書を生み出したことは、ピュリタン指導者たちの歴史的貢献である。この『欽定訳聖書』は日本の文語訳聖書翻訳の重要参考文献となった。[1]松岡正樹,斎藤剛毅,村椿真理,金丸英子,枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会,2011)pp.26-27(参照)
ジェームズ王の子、チャールズ1世(Charles Ⅰ,1600-1649,在位1625-1649)が王位を継承すると、国教会支持者であったウィリアム・ロード(William Laud, 1573-1645)が大主教(在位1633-1641)に任命され、ロードはピュリタンを激しく弾圧した。そして、この時期にピュリタンは国教会の改革に希望を失い、信教の自由を求めアメリカ大陸に渡った。また、1608年には、ジェネラル・バプテスト派の先駆的人物であるジョン・スマイスとそのグループも信仰の自由を求めオランダ(アムステルダム)に渡った。[2]松岡正樹,斎藤剛毅,村椿真理,金丸英子,枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会,2011)p.27(参照)
バプテスト教会にはジェネラル派とパティキュラー派の2つの流れがある。前者は、キリストの贖罪は信じる人すべて(general people)に与えられると説くオランダ神学者アルミニウス(Jacobus Arminius, 1560-1609)の普遍的贖罪説に立つ、ジェネラル・バプテストである。後者は、キリストの贖罪は神に選ばれた特定の人々(particular people)に与えられると説くカルヴァンの限定救済説に立つ、パティキュラー・バプテストである。[3]松岡正樹,斎藤剛毅,村椿真理,金丸英子,枝光泉『見えてくるバプテストの歴史』(関東学院大学出版会,2011)pp.28-29(参照)