トマス・モア


トマス・モア(英語: Thomas More, 1478年2月7日 – 1535年7月6日)

 イギリスの政治家,人文主義者。法廷弁護士のジョン・モアを父として生まれる。ロンドンの聖アントニー校での初等教育を経て,カンタベリー大司教ジョン・モートンの近習となり,彼の助言を得てオクスフォード大学カンタベリー学寮(のちにクライスト・チャーチに合併)に学ぶ。父同様,法廷弁護士の資格を得て名をあげる一方,チェルシーに館を構え,当代一流の知識人・文化人と国際的な交際を繰り広げる。そのなかには,エラスムス,ホルバイン,ジョン・コレット,リリー,ギリシャ語の師ウィリアム・グロシンなどがいた。

 1504年国会議員になり,翌1505年マーガレット・コルトと結婚。10年ロンドン州長官代理,11年には妻に先立たれるが,同年アリス・ミドルトンと再婚している。15年フランドルへ外交使節の一員として派遣される。この間に『ユートピア』(1516,解説後出)を執筆。17年には枢密院顧問となり,以来1509年に即位したヘンリー8世の寵愛(ちようあい)を受けるところとなり,出世街道を一路邁進(まいしん)する。20年にはフランソワ1世との外交交渉のため,ヘンリー8世に従ってフランスへ赴き,当代随一の古典学者ギヨーム・ビュデに会う機会を得ている。翌年ナイト爵に叙せられる。23年下院議長,25年ランカスター広領大法官,そして29年にはついに51歳にしてウルジーの後を襲って最高位の官職である大法官に昇りつめる。しかし,31年ヘンリー8世が離婚問題との関連で,イギリス国教会の長になるに及んで,モアは32年大法官を辞任する。以後,隠棲(いんせい)して執筆活動に専念し,ティンダルやルターなどの推し進める宗教改革に抗して一連の宗教神学論を書いた。一方,ヘンリー8世はアン・ブリンとの結婚を強引に押し進め,33年王妃キャサリンとの結婚は正式に無効であると宣言させるに至る。モアは,ヘンリーとアン・ブリンとの間に生まれる子供に正当な継承権を与える「継承法」を,宣誓という形で認めることを拒否し,その結果34年ロンドン塔に幽閉される。翌年7月1日,「継承法」宣誓拒否のかどで大逆罪に問われ,有罪を宣告される。そして同月6日断頭台に送られた。400年後の1935年にようやくカトリック教会により聖人の列に加えられた。

 著作はラテン語と英語の両方で書かれ多岐にわたる。英語の作品には,各種の詩歌をはじめ,ピーコ・デッラ・ミランドラの伝記というよりはその思想を扱った『ミランドラ伯ヨハン・ピクス伝』The Lyfe of Johan Picus Erle of Myrandula(10),ティンダルとルターらの宗教改革派に対する一連の反駁(はんばく)書『対話』A Dyaloge of Syr Thomas More(29),『魂の祈願』The Supplycacyon of Soulys(29),『ティンダルの解答を反駁す』The Confutacyon of Tyndales Answere(32),『トマス・モア卿(きよう)の弁護』The Apologye of Syr Thomas More Knyght(33)などがある。初めラテン語で書かれ,のちに英語版となった『リチャード3世の物語』History of Richard III(57没後刊)はシェイクスピアの同名の作品に影響を及ぼし,後世に名を残す。ラテン語の作品には,警句の類いから,ルキアノス風の風刺のきいた対話4編,各種の神学論に及ぶが,なんといっても『ユートピア』は画期的であり,以来一つのジャンルを形成するに至った。


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