イギリスの児童文学について以下においてまとめる。
中世の児童文学
イギリスで英語によって書かれた子どもの本が出版され始めたのは14世紀であった。このときの本の種類は、教科書や宗教書、行儀作法などの訓育書が主であった。さらに。当時本を入手し文字が読める子どもの数は限られていた。なお、イギリスにおいて、子どもの読書層がかなり形成されてくるのは、新興中産階級が飛躍的に増大し識字率が向上した18世紀後半以降のことである。
一方、本としてではないが、子どもの身近には口伝伝承の文芸が多く存在していた。神話、伝説、昔話、寓話など、昔から口伝伝承されてきた文学は子ども向けを意識したものではなかったが、キリスト教の道徳観の本にはない魅力と娯楽性で子どもを惹きつけた。
近世の児童文学
16世紀ごろから、行商人が売り歩き庶民に広まった挿絵つき廉価本チャップブックにも、多くの伝承文学が含まれていた。
18世紀になると、日曜学校運動が高まり、訓育的な本が児童書の中心にであった。しかし、読書に楽しみを求める傾向も生じるようになった。1745年にロンドンにイギリス最初の児童書専門店を開いたジョン・ニューベリー(1713-1767)は、ロックの教育思想に共鳴し、娯楽と教育の統合を目的として多くの児童書を出した。
近代・現代の児童文学
19世紀初頭には、ロマン主義運動がおきた。人間精神の解放を目指し、理性によって抑圧された想像力の復権が促された。そして、ファンタジーの隆盛につながった。当時、児童文学のジャンルは様々に広がったが、中心はファンタジーであった。代表作には、チャールズ・キングズリー(1819-1875)『水の子』(1863)、ルイス・キャロル(1832-1898)『不思議の国のアリス』(1865)などがある。特に、『不思議の国のアリス』は訓育性が見られず、純粋に楽しみのために書かれたという点から、近代の先駆的ファンタジーとされる。キャロルは現実の日常生活の経験を反転させたり、変形させたりすることによって、幻想的で混沌とした世界を描いた。ヴィクトリア朝ブルジョワ社会の繁栄を支える常識は意味を持たないとする皮肉とも読み取れる内容である。キャロルの『鏡の国のアリス』において、「鏡の国のミルクは美味しくないかも」[1]というセリフがあるが、有機化学において、鏡像体というものが存在し、自然界には存在しないが、人工合成によって創薬をするときに生じる鏡写しの物質が存在する。この物質は美味しくないでは済まず生命体にとって毒となる。空想の世界が後々発見される現実の事実に相似したという面白い内容である。
20世紀には、ファンタジーはさまざまな新しい手法や着想を取り入れつつ多様化し、19世紀を凌ぐ黄金時代となった。イーディス・ネズビット(1858-1924)『砂の妖精』(1902)において用いられた、everyday magic(日常生活の中の魔法)は、J. M. バリの『ピーター・パン』、P. L. トラヴァーズの『メアリー・ポピンズ』、J. K. ローリングの『ハリー・ポッター』など後の多くの作家に大きな影響を与えることになった。
長編ファンタジーとして、C. S. ルイス(1898-1963)の『ナルニア国物語』(1950-56)やJ. R. R. トールキン(1892-1973)の『指輪物語』(1954-55)などが重厚壮大なスケールをもつ作品が登場し、大人の読者も獲得した。『指輪物語』は映画化もされ非常に有名な作品である。舞台は、ホビットやエルフ、人間、ドワーフ、魔法使い、オークなど、多彩な種族が住む空想世界である。恐ろしい呪力を秘める指輪をめぐって、ホビット族のフロドを中心に8人の仲間がくり広げる大冒険は、やがて指輪戦争へといたる。構想10年、三部構成からなるファンタジーの大作である。なおトールキンが『中世英語語彙』や「文献学者チョーサー」などを研究するオックスフォード大学の文献学者であったことは面白い。なおルイスやJ.ウェイン、C.ウィリアムズも同僚の学者であった。当時の大学には文学を生み出す豊かな精神的な土壌があったことが推測される。
動物ファンタジーも最盛期を迎え、特色ある作品が次々と生まれた。ビアトリクス・ポター(1866-1943)の『ピーターラビットのおはなし』(1902)、ケニス・グレアムの『たのしい川べ』(1908)、リチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』(1972)などがある。とくに『ピーターラビットのおはなし』で有名なポターは、湖水地方の自然を背景として小動物の生活ドラマを描き、絵と物語を融合させて現代絵本の世界を開いたことにより高く評価されている。また、ポターは自分の土地をナショナル・トラストに寄付するなど、熱心な自然保護活動家でもあった。現在も、湖水地方には多くの自然が残っており、児童文学が社会を動かした一例といえる。
[1] How would you like to live in Looking-glass House, Kitty? I wonder if they’d give you milk in there? Perhaps Looking-glass milk isn’t good to drink –
参考文献
イギリス文化事典編集委員会 編 (2014)『イギリス文化事典』丸善出版
神山妙子 (1989)『はじめて学ぶ イギリス文学史』ミネルヴァ書房
川崎寿彦 (1986)『イギリス文学史入門』研究社
立野正裕 編、加藤光也 解説 (2009)『イギリス文学 ―名作と主人公―』自由国民社
ルイス・キャロル、河合祥一郎 訳 (2010)『鏡の国のアリス』角川文庫