アメリカとバプテスト史


今日からはアメリカのバプテストにうつる。教科書『見えてくるバプテストの歴史』は113ページから。年表は171ページある。参考文献は169ページ。

アメリカは移民の国である。アメリカの建国とバプテストとの関わり。舞台はアメリカ東北部ニューイングランド植民地である。
1775年ごろ、マサチューセッツ(プリマス)からジョージアまで南下。北部にフランス語圏、西部にはフランス領ルイジアナ。フレンチ・インディアン戦争も勃発。他にスペインも広大な植民地を保有。
マサチューセッツ(プリマス)から話は始まる。感謝祭11/23カボチャとターキーこれは英国からの移民の歴史と関わりがある。

英国には、王政、国教会がある。アメリカ合衆国には、議会、自由教会である。
一般的には、アメリカには清教徒(ピューリタン)がやってきたと言われる。

メイフラワー盟約

1620年プリマス植民地と拓(ひら)く ピルグリム(分離派)ジョン・ロビンソン、ウィリアム・ブラッドフォードなど。

 上陸に先立ち移民者が市民的政治団体の形成を誓った。
 その形は、つぎのようなものである。神の名において、アーメン。下にその名を記した我々は神の恵みにより、大英帝国、フランス、アイルランドの王、信仰の擁護書である我が君ジェイムズ王の忠実な部下である。
 我々は、神の栄光のため、

国に対する、忠誠心が大きい。

ジョン・ウィスロック「キリスト教徒の慈愛の雛形」

1630年マサチューセッツ植民地 ピューリタン(非分離派)ジョン・ウィスロックなど。

慈愛に基づく共同体の建設を唱え、ニューイングランドを「丘の上の町」(city upon a hill)に例えた。選民によるアメリカ建設のイメージを表現した。

人々(英国)が「主なる神はこれをニューイングランドの植民地のようになし給う」というようになるとき、イスラエルの神が私たちの間に居給うことを知るであろう。というのは、我々は丘の上の町となり、あらゆる人の目(本国の人々を含め)が我々に注がれると、考えねばならぬ。それゆえ、私たちが携わっているこの事業において神を偽り、主が現在差し伸べておられる援助の手を引いてしまわれることになれば、私たちの噂は知れ渡り、この世の物笑いの種となるであろう。

意識がかなり高い。英国国教会のような運営は嫌がると思うがそうであったのか?信仰の一致などの記述がある。

植民地教会

目的があるのであれば、同じキリスト教信仰が大切であると考えた。植民地教会を設立した。植民地の正式な住民登録は、植民地教会に籍を置くことであるとした。選挙権を有する人は公民である。それは、植民地教会の会員でなければならない。植民地教会は転入会が厳しいかった。会衆の前で信仰告白(回心体験;信仰に至るまでのプロセスまできちんと説明せよ)聖書の知識があるか、律法(りっぽう)理解がきちんとあるのか、罪意識と自身の罪の悔い改めをしているか、恵みを注がれているという自己認識があるのか、など。

変な信仰者を入れて失敗すると、植民地や教会共同体の失敗とみなされてしまう。

バプテスト派は植民地教会と対立(ロジャー・ウィリアムズ)

信教の自由をかけて戦うことに。宗教と政治(市民権)が一致していることに対立した。ロジャー・ウィリアムズは植民地教会と対立。幼児洗礼を否定。アメリカの再洗礼を主張1633年。英国は1638年。

安息日に(植民地)教会の礼拝に出席を怠る者が多いとの告訴があったので、この種の違反行為は、事情聴取の上、拘禁または1回につき5シリング以下の罰金によって処罰する権限を総督補佐官に与える。(1634/1635 マサチューセッツ植民地総会議)

イギリス人が所有している土地は、王の
礼拝における神の加護や祈祷を不正な人物(回心体験をしていないもの)を招いて行うのは正しくない。

試験予告

イギリスのバプテストの始まりと 何にこだわっていたのか 自発的信仰によるバプテズマ 何に対して、国教会に否といったのか バプテストの閉塞時期 バプテストの主張を展開するほど閉塞 何によって風穴を開けたのか トマスへルビスと教会作ったのは誰? 1611? 1640?重要年号 英国バプテストのことしかだせない。


コメントを残す